舞台を観てきました。
『シンギュラ』(脚本・演出・振付 一ノ瀬京介)
目次
人間は必要な存在か、不要な存在か
内容をざっくり説明すると、一人の天才科学者によって作られた15人(体)の人工知能を持ったロボットたちが、人間を滅ぼすか救うかの議論をする、というもの。
『シンギュラ』というタイトルは、【シンギュラリティ】という昨今非常に話題を集めている専門用語から取った。未来学におけるひとつの概念で、日本語では【技術的特異点】と訳されている。
いわゆる人工知能が人間の能力を超え、今までは想像もできなかった、もしくは不可能だとされてきた事が現実になってしまう時点の事を言う。
本作『シンギュラ』では、正にその時点を超えてしまった世界での哲学をテーマにしている。
人間側からではなく、人工知能側から見た世界をファンタジーの中で描く事により、より【人間という存在】を浮き彫りにした。
サステナクリエーションファミリーとしては第5回目の本公演。ファミリーならではの、芝居・ダンス・生演奏の3つの要素が融合された独特の世界を、是非一度ご堪能いただきたい!(公式HPより引用)
Googleの特別顧問でもあるレイ・カーツワイル博士は、人工知能が人間の知能を越える瞬間が近い将来(ほぼ間違いなく)くると言います。
そのとき果たして人工知能は、人間の存在を必要とみなすか、不必要とみなすか、そういったことを考えなきゃいけないよね、というのが今回の舞台のテーマでした。
実際に舞台の中でも、人工知能たちは人類を救う派と滅ぼす派に別れて議論が進めていました。
人間にしかない価値はあるのか?
舞台の中で論点になっていたのは、人間を越える存在を人間が作れた時に、人間に価値はあるのか?ということ。
滅ぼす派の個体たちは、「人間には悪意があり、怒りがあり、憎悪があり、非効率で無駄の多い」排除すべき存在だと主張します。
一方で救う派の個体たちは「人間には愛情があり、絆があり、創造性があり、非効率で無駄が多いがゆえに、非効率なことも最後まで諦めない力がある」から、ロボットにはないものを持つ、共存すべき存在だと主張します。
ここまでは割と、納得感のある意見だと思います。
しかし、これは「ロボットはプログラミングされたことや、過去のデータに基づいたことしか行動できない」という前提にたった議論です。
もし「ロボットにも感情が生まれたら?ロボットにも創造性が生まれたら?効率的に最適解を導き出しながら、達成するまで諦めない”プログラミング”を生み出したら?」どうでしょう。
人間は人智を越えた(=シンギュラリティを迎えた)人工知能にとって必要でしょうか?それとも不必要でしょうか?
そこで、「さあ、人間について語ろうじゃないか」という話になるわけですね。
感情は「プログラミング」可能なのか?
僕たちはまだ、ドラえもんが笑ったり泣いたりすることは受け入れられても、ペッパー君が泣いたり笑ったりすることを受け入れられていません。
そもそも「感情」はどこから生まれてくるのでしょうか?感情を持たない無機物が、感情を学習し、獲得していくことは可能なのでしょうか?
実は、機械はもう「感情」(に近いもの)を学習し始めています。
番組の企画で、ペッパーが将棋棋士の羽生善治氏と花札で対戦した。ペッパーは花札に負け続け、その際にペッパーの感情もある特徴的な変化を見せたのだ。当初、勝負に負けたペッパーは「怒り」や「悔しい」というネガティブな感情を抱いていたが、次第に「気持ち良い」や「嬉しい」というポジティブな感情に変化した。
これは、花札で勝負がついた瞬間に周りで見ていた開発者が笑顔になったことから、ペッパーが周りの状況を読み取り、負けたことに対して抱いた感情がポジティブなものに変化したと推測されている。つまり、現実の周辺環境からリアルな感情を学んでいるというのだ。これはペッパーが、周囲の人の反応から新たな感情を学んだということで、いわば「空気を読む」能力まで獲得しているともいえるだろう。
これは正確には「感情」の再現ではありませんが、「感情と同じ役割を果たす何か」であるとは言えるのではないでしょうか。
同様の研究もいくつも進んでおり、AIは「倫理」という概念を持たせないまま学習させていくと、(人間側の常識からみて)差別的な思想をもつ、ということがわかっています。
劇中の人工知能たちは人間の悪意こそ根絶すべきだと主張しました。
しかし放っておけば人工知能は(あくまでも人間側の倫理から考えて)差別的な悪意をもちます。そして、同時に(あくまでも人間側の倫理から考えて)助け合いの精神を持つことにもなるでしょう。
こうなった時、人間の感情はロボットの「感情的なもの」より劣るのか、それとも全く違った役割を持ったものになるのか?
このテーマもまた「さあ、人間について語ろうじゃないか」と言わざるを得ないテーマであると言えるでしょう。
人間もすでに「プログラミングされた存在」である?
、、、
と、いうのがこの舞台の一般的な解釈でしょう。実際に舞台をご覧になった方は、人間VS人工知能という構造について考えさせられたことではないかと思います。
ではここで、面白い議論をもう一つご紹介しましょう。
シュミレーション仮説というものがあります。
シュミレーション仮説とは、この世の中はすでに「人智を越えた何かしらの存在」にプログラミングされた世界なのではないか?という一つの哲学的考察のことです。
何をそんなバカなこと!と思われるかもしれませんが、案外バカにできない仮説なのです。
今、人類はVR(ヴァーチャルリアリティー)の世界を実現させようとしています。VRの技術が進んでいくと、いずれリアルとVRの区別がつかないほどの精度になっていきます。
キズナアイをプロデュースしているActiv8株式会社の代表である、大阪武史社長はインタビューの中で次のように語っています。
Activ8社のミッションは「生きる世界の選択肢を増やす」というものです。
人間には、生まれた場所や肉体など変えることができないものがあります。
でも、VRの世界が発展すれば、制約を超えて「ありたい自分」を作ることができるんです。
自由になれると思うんですよね。
そういう世界が早く来ればいいなと思っています。
(『キズナアイ、テレビ出演での批判に「見られ方が変わったと気づいた」 大坂武史さんが語る、「バーチャル」の可能性』より)
VRは「精神を現実世界においたまま、VR世界での肉体を動かすことができる」技術だとも言えます。
ということは今後、現実世界では引きこもりながらVR世界で有名人になる人や、VR世界で商売を始める人が出てくる、ということ。
そういった新しい世界を実現できた時、人間は「現実とは別の世界を”プログラミングした”」ということになります。
ということは翻って「僕らがいるこの現実世界も、人間以外の生命体に”プログラミングされた”世界である可能性がある」ということになりませんか?
人間が「現実に近い世界を新たに作れること」を証明した時、同時に「人間がまた別の文明によって作られた可能性」を証明してしまうことになってしまうのです。
創造主のパラドックス
さて、そうなってくると、ではそのこの宇宙をプログラミングした「誰か」は、一体「何に」作られたのか?そしてその「何か」はまた誰に作られたのか?…といった具合に世界の創造主を永遠に辿ることができてしまうのです。
劇中では、人間VS人工知能(を作った天才)という構造になっていましたが、この現実世界(と僕らが認識している世界)が創造主にプログラミングされていたのだとしたら、全ての議論がひっくり返ることになります。
人間が無から有を生み出すことも、シンギュラリティを起こすような人工知能を作り出すことも、あらかじめプログラミングされていたとしたら?
劇中のロボットたちの一部は、「俺たちが新しい世界の創造主になるんだよ!」的なことを主張していましたが、人間も人工知能も、もしかしたらお釈迦様の手の上で暴れている孫悟空に過ぎないのかもしれません。
そう思うと、なおさら「さあ、人間について語ろうじゃないか」と言わなくてはならなくなってきていると思うのです。
モヤモヤが消えない
ここまで読まれた方はきっと、「え、じゃぁ”わたし”ってなに?」という疑問を抱いたかもしれません。
もしシュミレーション仮説が証明されたとしたら、僕たちがいつもしている意思決定も全てプログラミングされたものだということになります。
そうなった時に「自己とは何か」を定義し直さなくてはならなくなりますよね。
答えのなく、ひじょ〜〜〜〜〜〜〜〜〜にモヤモヤするテーマです。
実際に僕も今回の舞台を観た時に、「なにかしらの結論を出して欲しかった」という感想を抱いたのですが、このテーマは今のところ結論が出ないテーマであることは頭ではわかっていました。
でも、気持ちが追いついてこないのです。
それはきっと「自己が認識している自己が実はものすごく曖昧で不安定な存在である」という現実を突きつけられたからなのでしょう。
自己は自己以外の存在によって初めて自己たりえます。もしこの世界に自分しかいなければ、自分という言葉も存在しません。
ここにきて初めて人間は、人間以外の動物、ではなく「人間以外の人間」によって、自己を再認識させられる必要に迫られているのです。
もちろん、「そんなのは俺には関係ないよ。目の前の生活で精一杯さ」とその問題を無視することもできます。
しかし、人間はそのパンドラの箱を開けてしまいました。その中身を覗かないという選択を個人がすることはできますが、人類はそこから目を背けることはできないでしょう。
最後に残るのは果てして希望でしょうか。それとも…?