「ニコチン」の立場になって考えてみたことがある
僕は過去に「ニコチン」の役を演じたことがあります。
人ですらないっていうね笑。タバコ産業が衰退していき、自分を必要とする人間が減っていく。自分の存在価値が危ぶまれてる中で、相方の「タール」に向かって話しかけるわけです。
そのセリフに想いをのせるには、ニコチンの気持ちを理解しなくてはいけなかったのです。そんな時に考えていたことはこんなことです。
「もしも自分がニコチンの立場で、人間に中毒性を与える力を持っているがゆえに世の中から追放されようとしているとしたら、一体どんな気持ちになるだろうか?」
「僕はタバコが嫌いですし、あっていいこと一個もないやんけ」と思っている人間です。だからどんなにニコチンの気持ちに寄り添ったとしても、彼(?)を肯定する事は出来ません。
しかし、彼(?)の立場になって考えてみると、共感はできなくても理解することはできるのではないかと思うのです。
共感することと、理解することは違う
俳優は、役がどんな背景の人であれ、どんなにとち狂った言動をする人であれ、一番の理解者にならなくてはいけません。その経験から言えることは
不倫をしてしまう人
全ての責任を放棄する人
うそをついて人を傷つける人
世の中には良くないとされていることをしてしまう人たちがたくさんいるけれど、
そういった人たちも含めて、その人たちの気持ちを理解することはとても「意味のあること」だと思います。
もちろん、必ずしも共感する必要はありませんし、肯定する必要もないと思います。
もしも僕が、
恋人に浮気をされたら
無理やりとる必要も無い責任を負わされたら
嘘をつかれて傷ついてしまったら
きっとムカつくし、一生憎むことになるかもしれません。
そんな人たちの気持ちになんてさらさら共感はできないと思います。
でも、それでも理解することはできる。
たまたま辛いことがあって衝動を抑えきれなかったのかもしれないし、
自分の立場を失うのが怖くて誰かに責任をなすりつけたかったのかもしれないし、
誰かを傷つけることでしか自分の優位性を保つことができなかったのかもしれないのです。
なぜ人を理解する必要があるのか?
最近とある会社の営業マンにとても不誠実な対応をされて、久しぶりにイラッときたけれど、
どうしても今月中に売上をあげたかったのかな?とか、もしくは、子どもが生まれるから何とかして収入を増やそうとしたのかな?とか、そもそも会社のスタンスがそういうスタンスでそこになんの疑問もなかったのかな?とか、
なぜその人がそんな不誠実な対応をしてしまったのか?ということに対しての理解をしようと思いました。
そうして、理解ができると何が起こるかというと、「そういうこともあるよね。ま、俺だったらそういうことはしないけど」という気持ちになり、怒りとか憎しみとかが減って行ったのです。
それと同時に「自分が共感できないようなことを平気でやっちゃう奴なんかために、自分の脳みそを使いたくなくないな」と思い始め、割とどうでも良くなってきました。
理解する、という行為が大事なのは、未知のものを既知のものに変えられるからなのだと思います。
理解しようとする心が世界をもう少しだけ平和にする
人は、理解できないもの、未知のもの、自分とは異なるものに出会うと、その存在への潜在的な恐怖心のゆえに、その存在を否定し攻撃するようになります。
そしてそれが争いをうみ、憎しみの連鎖を生みます。全ては理解できないがゆえの怖さからです。
だからこそ「ま、そういうこともあるよね。」と理解しようとする姿勢は、世の中をもうちょっとだけ平和にすることができるピースフルな姿勢だ、と僕は思うのです。
繰り返しになりますが、それでも、共感出来ないことに共感する必要は無い。
共感しないことと、理解することは両立することができるのです。
その事をできるだけ多くの人に知って欲しいなと思っています。